fc2ブログ
2013_10
24
(Thu)17:30

幻のD51



1990年9月に小樽港へ陸揚げされたサハリンのD51
輸入用の書類にはD51-1とD51-17と記されていたと聞く
D51-1は早々に柏崎に移されて保存となるも(後にアスベストを理由に解体処分)
一方の変な顔したD51-17は何処へ?

20131020-IMG_1226.jpg

大凡、D51って顔つきでは無く、どっちかと言うと某隣国の「前進型」みたいな顔
当然、戦後輸出された時は「日本のD51」同様の顔だったのであり
彼の地サハリンで整形手術を受けたものであると思われるのだが…

サハリンから戻ったD51は1.2.22.23.25.26.27の7両とあり
この17はリストにもあらず。ならばこれがその7両のいずれかと言うと顔が違う
はて?こいつは幻か?


本日もお越しいただきありがとうございます。
ご訪問の証とでも言いましょうか「見たよ」「来たよ」って感じで
下の【S L】バナーをポチっとして頂けると、明日の更新の励みになります
どうぞ、よろしくお願い致します。

にほんブログ村 鉄道ブログ SL・蒸気機関車へ
にほんブログ村

ご協力ありがとうございました。またのお越しをお待ちしております。

7両戻って来ても既に5両が解体処分で現存せず。
何を目的にサハリンから輸出扱いで戻して来たのやら。
1990年かぁ…バブルの申し子って言うのでしょうね。
素性知らずだけに隠し子かな?


COMMENT 8

まこべえ  2013, 10. 24 (Thu) 21:55

これはまた珍しい写真を出してきましたね。
戦後、最初に外国から発注を受けて輸出されたD51たち。
みんなデカライトにかえられて、おかしな顔つきになってしまいましたが、17号機は、とくに変顔になってしまいましたね。
サハリンに残って観光用の蒸気として活躍していた4号機も、これと同じ顔をしていたので、同じころに改良されたのかもしれません。
帰国後の行方はわからないようですが、油壺は、振内鉄道記念館のD51-23に転用されているようですよ。
http://kaze1189.web.fc2.com/s51-23-63.jpg
なお、記事のなかに帰国したD51としてあげられている22号機は、サハリンのユジノサハリンスク駅前に保存されていることが、一橋大学の水岡ゼミの巡検記にあるので、この1両が17号機に相当するのではないでしょうか。
http://econgeog.misc.hit-u.ac.jp/excursion/06karafuto/0822/index.html

Edit | Reply | 

くろくま  2013, 10. 25 (Fri) 08:41

これまた

貴重な画が出てきましたね。
サハリンで働いたD51はでっかい前照灯をつけていたようですが
煙室扉の二重構造は何のためだったのでしょうか?

廃車体もたくさん見てきましたが、レールの上ではなく莚の上ってのが寂しいですね。
せっかく帰国できたのだから、しっかり整備して保存してあげたかったですね。

Edit | Reply | 

マイオ  2013, 10. 25 (Fri) 16:08

これは貴重な写真

初めて見ました。
お宝写真、拝見させていただき
ありがとうございます。

給水暖め器がむき出しで煙突の前に
装着されているのは日本のカマの
特徴だから、そういう意味ではD51
だったんでしょうね。
ちなみに前進型・建設型ともに煙突・
給水暖め器・砂箱・蒸気だめがナメクジ
のように一体化ドームに収納されています。

煙室扉は小さめでそこにでかいヘッドライトが
装着されているところが類似しているけど、
それにしてもこの煙室扉は小さすぎだなぁ。
はてさて、なにを意図したんだか・・・?

Edit | Reply | 

とおりすがりです  2013, 10. 26 (Sat) 17:50

凄いとしか言いようがありません

これはとてつもなく凄い写真ですね。
よくぞ情報を入手され、この日この場所へ出掛けられたものであります。
煙室扉が大型の固定式のものに交換されたり、給水温メ器のケーシングが変わっていたり、空気圧縮機の前、元空気溜メの上にベビータンクが追加されていたり、興味が尽きません。
サハリンはユジノサハリンスクしか知りませんが、ここは建物も車(ほぼ100%日本車です)もまるで一時代前の北海道の小都市のようでありました。
そこを走ったD51は、きっとその景色に溶け込んでいたことでしょう。

Edit | Reply | 

ひぐま3号  2013, 10. 27 (Sun) 12:12

まこべえさん

コメントありがとうございます。
然してロクな調べもせずにテキストを記載したので今となってから慌てて色々調べてみました
(その関係からレスが遅くなり失礼いたしました)
まず、記事中の帰国D51ですが、静態保存機のデータと見間違えての記載でしたので22号機は
ご指摘の通り彼の地サハリンで保存でした。
23号機の油壺に17号機の刻印とのお話、これに関してですが結論から言うとサハリンのD51は
現役時代に彼の地サハリンで「ガラガラポン」されたかの如く、殆どの車両で部品がやりくりされており
D51-1の動輪は21.16.不明.11 D51-17の動輪も不明.21.9.9と刻印が読めて、更にはクロスヘッドや
合併テコの刻印も他機のもので、この17号機と言われる罐に於いて17号機の刻印が全く無い…
勝手な推論ですが、D51-1を柏崎で動態保存させると言う話があっての里帰りでしたので
こっちの17号機は「部品取り用」として対で帰国したものでは?余りにも状態が悪く動態復元を諦めたので
不要となったスペアパーツ号機は保存されることもなく一部の部品を提供して消え去ったのではと推していますが如何なものでしょう?

Edit | Reply | 

ひぐま3号  2013, 10. 27 (Sun) 12:13

くろくまさん

ヒンジがついているから二重構造に見えますが実のところ全く意味のないヒンジでして
あの小さなハッチが煙室扉のようです。あれだとシンダを取り除くにはロシア人の体格からしても
結構大変な作業となる大きさに見えますよね~想像すると笑えそうな光景が目に浮かびます
当初は動態復元なんて話もあったサハリンの帰国D51
日本国内を走った由緒ある罐すらきちんと管理清掃整備できずして鉄資源へリサイクルさせてしまうんですもの
個人レベルの入手先は早々に廃棄、公共レベルでも柏崎はアスベスト云々で解体処理を優先した結論を出し
今や、振内の富内線廃止の記念施設と、同様に標津線廃止の記念施設となる別海町の旧西春別駅で保存される
2両しか残っておりません。帰国したのが幸せだったのかは某隣国残留孤児の帰国同様に問われますね

Edit | Reply | 

ひぐま3号  2013, 10. 27 (Sun) 12:13

マイオさん

流石は前進号を直に触れ合って来たことのあるマイオさん
前進号にはお詳しいご様子ですねぇ~その前進号、最後に作られたのが1988年ですってね。
日本ではC62やD51、C58などが復活復元された年ですから、何だか驚く話ですよね。
その前進号もどきの表現、顔つきが日本仕様のD51から、大きく整形手術したような顔つきになったので
今話題の日本人がフランス人形に憧れ整形したヴァニラだかってタレント?の如く
煙室扉の小型ハッチを揶揄って前進号って言ってみたものですのでご理解下さいね。
で、そのハッチだけど前進号のも小さく見えるけど元々の罐自体がデカい上での小型ハッチと
そもそも小顔のD51につけたハッチでは大きさに隔たりがありますよね。そんな小型で作業が出来たのやらと
思うところですよね。

Edit | Reply | 

ひぐま3号  2013, 10. 27 (Sun) 12:15

とおりすがりですさん

この陸揚げの際、元築港の検査長Y氏が実車確認の上で「ブレーキ装置は全面変更されている」「走り装置に変更が多い」
「風入弁撤去」「動輪軸箱給油は第1動輪ランニングボードに一括して油タンクを置き第2~第4動輪へはそこから銅管で送っている」
など、ざっと見とは言え違いを見出された話を伺っております。
で、興味深い話だったのは「バイパス弁が撤去されていてドレフヂングバルブにより随行時もシリンダを温めていたかも」との話
結論を伺うことが出来ぬまま今日に至っちゃいましたがD51が極寒の地で彼の地仕様となりC52の仕組みになっていたとしたら…
凄いなぁ~と思うところですよね。
そうそう、このD51の現役時代の頃、あの大ループを走る写真っていうのを見たことがあったのですが、
最近、ネットで国鉄色のキハ58のものも見たのですが、どう見ても北海道!
海岸線のものなんか羽幌線?って感じでした。
近年、日本では片田舎の道路や線路沿いでも看板やらと大凡その風景にミスマッチな構築物が
目につくようになり時が進んでしまいましたが、
彼の地はまだ20~30年前のわが国と同様な雰囲気なんでしょうね。そんな中だとやはり映えるでしょうね。

Edit | Reply |